いじめの対応ー悪意との闘いー
記事カテゴリ:心理カウンセリング
●はじめに
神戸市の小学校での教員間におけるいじめの問題が大きな波紋をよんでいます。様々なメディアで「教員の劣化」が指摘され、とある国会議員はいじめをしていた教員を「クズ」と表現しました。
今回公表されているいじめの内容をみるとあまりにもひどく、それが子どもに「道徳」を教える立場である教員によって、しかもその学校の中核をなす教員(いじめ対策担当など)によって行われたことから、多くの人に衝撃を与え、「学校教育」「教師」への不信感を増大させています。
●いじめと傍観者
いじめの本質や対応については、以前の記事でも取り上げましたが、大事なことは「傍観者」と呼ばれる周囲の人間の意識をどう変えていくかが重要です。
いじめというのは、「いじめが許容される空気」のなかで起こります。ハラスメントもそうです。ですから、「あんなことをするなんてひどい」ともし思ったならば、声をあげる必要があります。声のあげ方が大事ですが、声をあげるのか、それともこころの中で思っているだけなのか、では大きく違います。声に出して言わなければ、何もしないことと同じです。もし声を出した人がターゲットにされたり、声を出しにくい状態になっているのなら、状況はかなり悪いと言えます。
私の小学生の頃の話ですが、複数の男子らによる女子へのいじめをとめたことがありました。そのとき、男子らからは「偽善者ぶるな」などと中傷されました。
私は「おかしいことはおかしい」と言うことに大きな価値をおいていますので、そういった中傷もあまり気にならないのですが、人によってはそういった中傷を恐れる人もいるかもしれませんね。
ここで、「身の回りでいじめやハラスメントを受けている人がいるときに、周囲の人が声をあげない、声をださないこと」について、もう少し考えたいと思います。
●いじめられる側にも問題がある?
いじめが起こるとき、よく耳にするのは、「(いじめられている)あいつにも悪いところがある」「いじめられても仕方がない」という言葉です。
いじめられる人の特徴として、寡黙であったり、発達にアンバランスを抱えていたり、コミュニケーションが苦手であったり、目立っている、嫉妬や妬みを引き起こす魅力をもっている、異質感を放っている、などがあります。
けれども、「そういった理由があるからと言って、いじめていいことには決してならない」わけです。いじめられやすい特徴や理由があることは、いじめて良い理由にはなりません。至極当然な話なのですが、ここの線引きが薄い人が非常に多いのですね。もし、あなたの心のなかでここに強い線がひかれているのならば、いじめやハラスメントを見聞きしたときには、声をあげねばなりません。
「いじめられる人にも良くないところがある」と言う人は、いじめる側の立場にたって、いじめについて考えています。昨今のあおり運転に関しても同様で、「あおられる人にはそれなりの理由がある」と言う人もいます。だからと言って、決して「あおってよい理由にはならない」のです。
●傍観者の心理
また、傍観者と呼ばれる人たちは、いじめやハラスメントを許容する空気を自分も作っているのだという自覚が足りません。足りないどころか、ひどい場合には、「いじめられてざまあみろ」「厄介なことには関わりたくない」などと思っている場合もあるかもしれません。
このような傍観者の心理があると、いじめられた人が周囲に訴えても、軽んじられたり、「お前にも悪いところがある」と言われるなど、いじめられた人がさらに追い詰められることもよく起こります。
さらに、いじめている側はたいていの場合、クラスや組織の中で力をもっている場合が多く、からかいなどのいじめ行為は、心理的にはおもしろいと認識されやすいので、集団の自浄作用が起こりにくいのです。
私がなぜ傍観者の人の心理について繰り返し言うのかというと、「いじめの問題は、傍観者である個々人の意識の問題である」と考えているからです。
そして「いじめを防止するには、いじめを許容している空気をかえていく必要があり、そのためには個人の意識や認識を変えていく必要がある」と考えています。
●問われる個人の意識、認識
では、「個人の意識を変えていく」とはどういうことなのでしょうか。いかに列挙してみます。
①「いじめられる側にもそれなりの要因がある」という思考は、いじめる側に立った思考であり、決していじめて良いという理由にはならず、この認識をつよくもつこと
②いじめられた人の深い苦しみ、大きなダメージを知ること
③からかいや悪ふざけの行為の奥に隠された悪意が、いじめの正体であることを理解すること
④いじめられた人に傍観者があたえる苦しみはいじめそのものに匹敵する、あるいはそれ以上の場合もあるとつよく理解すること
⑤自分の心の中にある「悪」を見つめること
では解説していきます。
①についてはすでに説明したので割愛します。
②についてですが、
いじめは人権侵害に値します。人権を踏みにじられる体験は、とても大きなこころの傷をうみます。
いじめられた人は、「自分は周囲から人権を踏みにじられるような人間なのだ」「(私をいじめる人間にとっては)私はそういう価値なのだ」という心理を抱きます。この自己存在価値に対するダメージは、大きな心の傷です。
しかし、この心の傷の痛みは、体験した人でないと、なかなか分かりにくいのです。
②の説明に絡んで、③について説明します。
私自身も高校生の頃に、双子の兄弟と部活のメンバーから、非常に辛い体験にあいました。
高2の遠足の時の話です。私が部活写真を撮ろうとその場に向かうと、笑って双子の兄弟と部活のメンバーが、ニヤニヤと笑いながらこちらにやってきました。私がいない間に、双子の兄弟が私の代わりになって、部活写真に映っていたのでした。
私は双子の兄弟や部活メンバーのニヤニヤした表情をみて、大体何が行われたかは察知していました。が、念のため、「部活写真は?」とたずねると、「撮り終わったから(笑)」と返事がかえってきました。
私はその出来事の衝撃の大きさのまえに、自分が深く傷ついたことを意識で理解することはできませんでした。そして、自分が写真に映っていないことを誰にも訴えることはできませんでした。自分が深く傷ついていたとなんとなく理解できはじめたのは、それから10数年後のことでした。
私にとっては非常に大きな心の傷ですが、彼らにとっては「からかい」程度の認識でしょう。
さて、ここが非常に大事なポイントです。「それはいじめなのか、ただのからかいなのか、悪ふざけなのか」という議論がよくありますね。学校のなかでもよく聴く言葉です。
しかし、いじめの理解と対処にとって、それがいじめなのか、からかいなのか、悪ふざけなのかは重要なことではありません。いじめの最初にはからかいや悪ふざけがあります。ですから、からかいや悪ふざけはいじめと等価な行為として考え対応することが大事です。そして、扱うべき内容は、いじめやからかいの行為ではなく、その行為の奥にある「悪意」なのです。
悪意のある言葉の代表格は「おもしろそうだったから」です。「おもしろそうだったから」という言葉は要注意です。さきほどの私の体験で言えば、双子の兄弟や部活メンバーの「ニヤニヤした顔」に表現されています。物事の行為よりもこの悪意を見逃さず、クリアにし、徹底的に扱うことが重要です。
④について
いじめられた人にダメージを与えるのは、いじめをした人たちだけではありません。いじめられた人の心理として、「自分がいじめられた時に、周囲の誰もとめてくれなかった」という事実が、心の傷となります。この事実を、傍観者の人はよく理解しておく必要があります。
また、いじめられた人が被害を訴え
たときに、軽んじる、あなたにも非がある、といった周囲の対応は、いじめられた人を非常に傷つけます。私はあまり好きでない表現ですが、その傷の深さは、「セカンドレイプ 」と言われるほどのものです。
⑤について
私はいじめ問題を考える時に、よくISISの存在を思い出します。なぜあれほどまでに残虐非道なことをするISISが生まれたのか。社会的、政治的な理由はたくさんあると思いますが、私は心理的な理由として、「社会や個人における、"悪(≒ネガティブ感情のかたまり)"の排除が原因ではないか」と考えています。
生きていれば多少なり心が傷つくことがあるでしょう。容姿や能力、家庭環境など、生まれながらにして変えられないものがあります。そのなかで、妬みや嫉妬、怒りなどの様々なネガティブな感情が生まれます。さらに、妬みや嫉妬の奥には劣等感やコンプレックス(複合感情)があります。
けれども、「そうしたネガティブな感情は自分にはない」「ネガティブな感情をもっていることは悪いこと、恥ずべきこと」「”心の綺麗な人”でいましょう」というような、ネガティブ感情を抑えこむ、あるいはシャットアウトする思考や価値観があまりにも社会や個人に浸透しすぎて、ネガティブな感情が出口をもとめてさまよっているのです。
●出口を求める負のエネルギー
ネガティブな感情は強いエネルギーを秘めています。絶えず発散場所をもとめ、体の中をさまよいます。きつい言葉で出す人もいれば、暴力行為などで出す人もいますし、チックなどの身体症状として出す人もいます。つまり、ネガティブな感情は、そのエネルギーを表出し承認される場所を求めているのです。
しかし、昨今、このネガティブな感情を承認してもらい、ネガティブな感情の表出に伴うエネルギーを出せる場所が極めて少ないのですね。
私が今、学校現場でアンガーマネジメントに取り組みはじめているのは、ネガティブな感情を承認してもらい、ネガティブな感情表出に伴うエネルギーをうまく発散できるようにする狙いがあります。
●終わりに
差別や偏見による苦しみのなかで自分(の心や弱さ)と向き合い、深い苦しみや孤独を抱えながら、悪意に満ちた世界を戦い生きぬいたフレディ・マーキュリー。
QUEENの『WE ARE THE CHAMPIONS』は、
差別や偏見や悪意によって、傷つけられ苦しんでいる人々への、フレディからの贈り物なのではないでしょうか。
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2019-10-19いじめの対応ー悪意との闘いー
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